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60.ピタリとハマる

ニューヨークでは、誰もがしょっちゅうあちこちで自己紹介を繰り返しています。路上で、公園のベンチで、店先で、郵便局の列に並びながら、地下鉄で立ったまま、、、見知らぬ同士が何かのきっかけで話し始めるということが頻繁にあります。 名前を教えあうわけではなくても、ほんのいっときの会話に、自分のライフスタイルや背景が透けて見えるようなものが混じります。

「なぜ私がこの地下鉄のラインを一番よく利用するかというと、通勤のためではなくて、美術館によく行くからなのよ」 「籠の中の2ダースの生クリーム? 今晩ホイップしてお菓子を作るの。毎週ボランティアしているホームレスのシェルターに持っていくため。お誕生日のおばあちゃんがいて、私の 祖母と同い年になる人なの」

こんな一言を発すれば、その人に向けて自分の心の窓を少し開けた感じがするし、その一言を耳にするなら、その人の心模様が垣間見える気がします。 そしてそこには、ニューヨーク流アプローチがあるように思います。ねえそこのあなた、夕陽が素敵よ、眺めてごらんなさいな、などと話しかけられることはありません。信号待ちの交差点で、「あのクレーン、危なっかしいな。今はもっと新型の安全なのがあるのに。去年死んだ親父がクレーン扱ってたからよくわかる。別の道を通ったほうがいいよ」 などと聞こえてくるのがニューヨークです。 たとえばマンハッタン島は東京都世田谷区より面積が小さく、そこに世界各国の人たちがひしめき合っています。見かけも考え方も文化の背景も違う人間が狭い場所で折り重なるようにして生きています。だから路上で見知らぬ人に発する言葉も、なんというか、重層的なのです。

クレーンのことならよく知っている。 父親はクレーンを扱う仕事に従事していた。 父親が去年死んだ。

という人生告白に加えて、見知らぬこちらの安全を慮ってくれる優しい面が、短い発言に含まれています。 ニューヨーカーは、まず一緒に夕陽を眺めて、感想を言い合って、それから、、、という具合にはならないのです。せっかちなのです。今すぐすべてを、核心を伝えたい、理解してほしい、グズグズしないでほしい、という感覚が行き渡っています。

最初から鍛えられました。えーと、わたしはあんまり英語ができないので、、、などと言っている場合じゃありませんでした。セントラルパークの岩の上で日光浴をしながらルイ・ブニュエルを読んでいる女学生は、「・・・そのくらいの英語が喋れるわけでしょう?」という顔でわたしの答えを待っています。 どんな答えを? 「あなたがブニュエルの映画が好きなわけは?」という彼女の問いに対する返答を。 日本語でさえ、一日時間をください、と言い逃れたくなるような内容を、今ここで言いなさい!と要求されているわけです。乏しい手持ちの英単語の中で、あなたの思いを表現してみなさい、とレッスンしてもらっているわけです。

あれから30年たった最近、近所の床屋のおじさんに「空の色で一番好きなのは?」と聞かれました。彼が店先に出て飛行機雲を見上げているところを通りかかり、こんにちは、と声をかけた時のことです。 わたしはすかさず、”Azure” と答えました。というより、考えるより前にそのように口にしていたのです。”Azure”とは、夏の空の色に近い色のことだと思いますが、それはどうでもいいことで、それよりも、わたしは、”Azure”と発音することを楽しんでいたのです。その音を発したかった、その音が好きだった、というだけです。 小さなことですが、嬉しい発見でした。そうか、わたしは”Azure” が好きなのか、という発見ではなく、数日前のあの瞬間、九丁目の歩道で、床屋のトニーさんと並んで、そう口にしたかった自分がいて、そうしたかった通りに口にした、ということが、これ以上はありえない正しさで、ぴったりハマっていて、自分がいるべきところにいてなすべきことをしている、という感覚に包まれたのです。

ハマっている感覚。

それは、多種多様な姿で心に生まれる感覚のうちでも、最高のものに違いないと思っています。 それ自体、満ち足りた幸福感そのものですが、そのような瞬間には、おまけがつくことが多いのです。 その時も、おまけがありました。床屋のトニーが店の中に引っ込んで、「ホラッ」と持ってきてみせたのは、角のピンとしたポストカードの、 紺碧の湖の写真でした。Azure と飾り文字がついています。ポーランドに住む母親からの便りだと言います。わたしには読めない言語ですが、「こんなしっかりした字を書けるなんて若い」と感想を伝えると、僕もそう思う、と嬉しそうです。同時に老いた母親への心配もうかがえます。 トニーは、通りがかりの近所の知り合いに、空の色談義をしたかったわけではなかったのでしょう。彼の心にあったのは、祖国のお母さんのことだったのでしょう。または、トニーは気づいていなかったけれど、お母さんが彼を想って、彼の心のドアをノックしていたのかもしれません。 いずれにしろ、口をついて出たAzure という一言は、わたしだけでなく、二人ともに、小さなシンクロニシティを経験させてくれました。 出来事とは言えないほどの小さなことではあるけれど、大きな喜びです。

このように、何かピタッとハマる経験を、わたしは無数に繰り返してきました。  狭くて、生身の人間が折り重なるようにいて、皆せっかちで、重層的で、求めるものが大きいニューヨークが、最高の練習スタジオでした。どこでも人懐っこく話しかけられ、「そこにハマる」機会がたくさん与えられて来たからでした。


( 初出誌 Linque Vol. 61 発行 : 国際美容連盟 2018年7月 )

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