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39.「終わりました。ありがとうございました」

祖母が亡くなって長い年月がたちましたが、今でもよく、祖母の声が心にこだまします。 何ということもない日常の会話の断片の数々もあり、深く教えられる言葉、反省を促される言葉もあります。どんな内容の声も、まったく同じ、祖母そのものであり、祖母に関するどんな記憶もまた、今となっては、どれも、いかなる意味でも違いのない、祖母という存在そのものになっています。 それは両親にとっても同様で、家族が集まる機会があると、決まって、祖母のことが話題に上ります。全員の心に残っているさまざまな「祖母語録」を挙げ、なつかしみ、あらためて、祖母の魂に手を合わせるということを繰り返しています。 その幾多の言葉のなかで、とりわけ頻繁に心に蘇るのが、「終わりました。ありがとうございました」というものです。 たいてい、その言葉は、家族間のちょっとした言い争いのしばらく後に、口にされ、祖母はそれから、軽く、ときには深々と、わたしたち家族に頭を下げたものです。 日常を共にしている家族には、しょっちゅう、ではないにしても、ごく小さなことで衝突が起こる頻度は少なくないものではないでしょうか。 お互いに遠慮がない、ということも理由でしょうし、逆に、家族であっても遠慮はやはりある、ということが理由になる場合もあるでしょう。また、些細なことにも、それまでの過去のあれこれを持ち出してコトを荒立ててしまうということも、多々、あります。 さらに、家族とは、それぞれが、心から、もっとも大事にし合い慈しみあっている仲でありながら、同時に、お互いの力関係がむき出しになりやすいところです。稼ぎ頭のお父さんが威張ったり、大人が子どもの心を押さえつけたり、年上の兄弟が年下をいじめたり、優等生の兄弟に成績の低いほうの兄弟が劣等感を抱いたり、あるいは、若くしゃきしゃきした者が老いて少しボケてきた者を邪険に突っ放すということがあったり。 家族とは、愛さずにはいられない者同士だと思います。情愛があふれ、それを伝え合いたい、という思いから逃れることは不可能です。どれほど傷が深く、どれほど憎く、怒りが強くても、愛を閉じ込めることはできません。ですから、家族間の問題は、未解決のまま忘れ去ることにはしておけないもの、と言えると思います。実は、あらゆる関係が、そうなのですが、家族の場合は、そのことをはっきりと思い知らされます。親を恨み、その親がすでにこの世にいなくても、親を慕い愛する思いは生涯心から消えることはないのです。 また、家族とは、エゴを互いに無防備に見せ合う者同士、とも言えます。家族のそれぞれがどんなにお行儀よくしていても、日常を共にしていれば、エゴのぶつかり合い、エゴの悲哀は眼に見えるものとなり、こまごまとした衝突が避けられずに起こります。 我が家も例外ではなく、家族の歴史にたくさんのことがありました。 強く立派で信仰心に篤い祖母は、その歴史に、長い間、女王のように君臨していました。というのも、結局は、祖母の言うことがいちばんもっともでまっとう、誰も対抗できないと受け入れて折れるしかなかったからです。時に、筋が通らないと感じても、祖母の毅然とした態度ゆえに、理屈を持ち出す気が失せてしまうのです。 ところが、老いてきて、物忘れや勘違いがちらほら見え始めた頃から、きっぱりした態度に変化がみえ始めました。 その変化とは、「その場で決着をつける」ということがなくなった、ということでした。 父との間で、庭の作り方に意見の相違を見て、お互いに譲れない!という状況になったときも、母との間に深い亀裂が生じたときも、祖母と一緒に旅行したわたしが、うんざりした顔を見せてしまったときも、祖母は、言い返したり、頑固に心を閉じたりするということはなく、口をつぐみ、その場から、姿を消して自室にこもりました。 そしてしばらくして(それぞれ、どのくらいの時間だったか思い出せません。わたしとの間でそれが起きたときは、ほんの数十分ではなかったかと思います)部屋に戻ってき、 「このことについて、終わりました。ありがとうございました」 と、頭を下げるのでした。 何が終わったのでしょうか? 尋ねるまでもないことです。祖母は、ひとりになって、自分の波だっている心を見つめ、その波が鎮まるのを待ち、心の揺れを「終わらせた」のです。 庭をどうするかについて、どちらが正しい意見を持っているかを裁くことではなく、苛立ちを見せたわたしを弾劾することではなく、自分の心の波立った湖面を、澄んだ、静かな、きれいなものに戻すことだけに、気持ちを集中させたのでした。 そしてその過程では、先祖様、亡くなった旦那様、つまり仏様に、波立った心の湖面を委ね、穏やかさを取り戻せるようにお願いをするということがありました。自室にある仏壇に、いつもより長い時間手を合わせている祖母を、わたしたちは目撃しました。 おそらく、願いが叶えられ、心が鎮まったことを伝え、お礼の言葉を捧げていたに違いありません。そして、 相手に抵抗する心、傷ついた心を自分で癒し、あるいは、ゆるし、浄化することができたという機会を得たことに対して、わたしたちにも、静かに頭を下げ、感謝の思いを表していたのでした。 毅然と生きた祖母は、もっとも頭の低い人でもありました。その祖母を思うとき、わたしたち家族は、祖母よりももっと頭を低く、同時に祖母よりもなお毅然と頭をあげていなければ、祖母に合わせる顔がないねと、確認し合っているのです。


(初出誌 Linque Vol.40 発行:国際美容連盟2013年4月)

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