ニューヨークで毎週やっているヒーリング・クラスで、すばらしい体験を話してくれた方がいました。 毎週同じ顔ぶれが揃うので、先週にはこんなことがあったとか、こんなふうにへこたれていたとか、みなさん、オープンに分かち合ってくれます。 今回のエピソードも、いつものリラックスした雰囲気で、さらりと語られたことでしたが、わたしたち全員を、はっと目覚めさせてくれた、忘れがたいものなので、ここでみなさんにもお伝えしたいと思います。
その女性は、そのたたずまい自体が、周囲をはっと目覚めさせてくれる感じの方なのです。からだつきも、声も、身振りも、表情も、力強いバネのような感じ。いきおいのいい瞬発力と、無限に喜びを求める情熱と、じっとしていられないくらいにほとばしる愛情と、決して屈折しない、公平な視線、公平でないものに対する容赦のなさ、等々が、オーラを読み取るまでもなく、誰にでも伝わってくる感じを持った方なのです。鮮やかな赤がよく似合い、シンプルでポップな着こなしは、ニューヨーカーというよりむしろパリジェンヌのものです。年齢不詳、職業不詳、はたまた国籍不詳、と見えるでしょう。実際は、日本人であり、二人のお子さんを持つお母さんであり、写真を撮り、文章を書き、お料理の腕前はプロ級で、パンを焼くに至っては、事実、プロフェッショナルのベーカーです。それも、ニューヨークでいちばん高級なベーカリーの、です。
そのベーカリーで、いじめがありました。同僚に、無視、という形でいじめを受けたのは、彼女自身です。 いじめ、または村八分というものは、子どもの世界にも、大人の世界にも、古今東西どこにでもあるようです。それは、わたしたちが、自分自身が見捨てられることを恐れているときに起こります。 「他の人はなぜ許せるんだろう、こんな人を」と、誰かを厳しく罰したい思いを抑えられずに苦しんだことはないでしょうか。 「罰したい」という思いは、一種の快感とともにわき上がるはずです。罰することができて、少なくとも罰する理由ができて、安心するからです。 ということは、心のなかで罰しているその相手に、実は自分が脅かされているのですね。そして、脅かされていると感じるとき、何か自分より優れたもの、あるいは、自分と同質の暗いものを相手に見ているのです。 そして相手が、その優れたものを人々に発見され、愛され、認められ、華やかに花開くのを、または、自分と同質と思っていたものから解放されて自由にはばたくのを、怖がっているのです。 なぜなら、そのとき、自分は相手にも人々にも見捨てられ踏みつけにされ、脇に押しやられるだろうから。そんなふうに、自分が見捨てられるのを恐れるとき、わたしたちは、誰かに、代わりに、「見捨てられたままであってほしい」と願うようです。ひとつのグループに、排他的な想念、排除という概念が生まれるとき、そこには必ず、見捨てられたくない恐れがあるのです。
さて、件の彼女は、ある日突然、同僚ふたりから無視されるようになりました。 「わたしの何が悪いのだろう」とまずは思ったそうです。「何を変えなくてはいけないのだろう」。 そして次に思ったことは「自分が悪いはずはない」「なによりわたしは良いベーカーなのだから」ということでした。自分は良いベーカーであり、自分に大事なのは心の平和である、だからこのような「いじめに苦しみ悩むということをわたしは拒否する」ということでした。 拒否するということは、それに対して闘わない、恐れない、すなわちただ受け入れるということと同じです。 なんてすばらしいんでしょう。自分は悩む理由がない、なぜなら良いベーカーだから、と言い切れるということは。そして、おわかりでしょうか、彼女が自分を良いベーカーだと言える理由はただひとつ、彼女がパンを愛しているからです。おいしいパンが大好きで、腱鞘炎や長時間労働や、いくつもの困難をものともせずに、愛をこめてパンを焼いているからです。
愛だけが、平和と力を運びます。自分についてあれこれと思い悩むのではなく、好きなものにぞんぶんに愛を注ぐことが、自分を救う道ということですね。 わたしたちの誰もが、愛を使い、愛の力を目撃できるということを忘れずにいたいものです。それを教えてくれた彼女の愛に感謝、乾杯!
(初出誌 Linque Vol.20 発行:国際美容連盟2008年3月)
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