40年以上前にニューヨークに住み始めた頃、あらゆるものが新鮮でした。当たり前に聞こえるかもしれませんが、目にするもの、耳にするものが新しいだけではなく、自分自身も新しく、生まれ変わった気分だったのです。社会システムや習慣に疎く、言語にも慣れず、何も知らない、未だ何者でもない、赤ん坊のような自分としてブロードウェイを歩き、そのような小さな誰でもない存在としてカフェで通りすがりの人たちに接してもらい、清々しい、“肩書きのない”対等な関係を、ニューヨークと、ニューヨークの人々と、結んでいた。
それは、たぶん海外居住をしなくても、見知らぬ土地を旅する時でも経験できる感覚です。若返りの感覚とでも呼ぶべき、
BLMという新語がアメリカで生まれ、世界に広がりました。ご存知ですよね。
これは、
Black lives matter. の略語で、日本ではたいてい「黒人の命も大切」「黒人の命は大切」などという訳になっています。
黒人の命は大切なの? もちろんです。
白人の命も、黄色人種の命も、大切です。
年寄りの命も若者の命も大切。
高所得者の命も低所得者の命も大切。
男性の命も女性の命もトランスジェンダーの命も大切。
善良な市民の命も犯罪者の命も大切。
あらゆる命は、平等に、対等に、大切です、、、ね?
それは、
「もちろん、誰にでも生きる権利は平等にある」
「だから、わたしはあなたの存在を我慢して受け入れることにする」
というように納得することもできます。
または、
「人生に現れるすべての人たちは、自分にとって、平等に、対等に、大切だ」
という以上に、
「あらゆる人は、自分のために現れ、姿を見せてくれている。わたし自身を映すために」
と、魂の深みから、理解し歓迎しようとすることもできます。
わたしたちは皆、それぞれの違いを見て、それぞれに名前をつけて、細かく区分けし、その一つ一つのグループと、慎重に距離を測ろうとする傾向を持っていますが、それは何のためでしょう? きっと、自分をどこかのカテゴリーに当てはめるために。そしてその中で自分を守るために。また、自分を“測る”ために。
「わたしは日本人です」と言う時の(そこはかとない)優越感と劣等感。安心感と不安感。
「わたしの夫はこの人です」と言う時の(そこはかとない)達成感と敗北感。
この例に似た感情が、心の奥深くに隠されていないでしょうか。
わたしたちは、他人の中にそれぞれの違い、自分との違いを見て、自分に必要な味方を選び取り、その味方との関係を何とか保とうと努力しながら、自分という、他の誰とも同じではない特別な存在を、何とか守り、また、責めもしながら、生きているところがないでしょうか。
その生き方には、差別(と言わなければ区別または比較)は必要不可欠なものとしてあるのではないでしょうか。
自分という他とは異なった唯一無二の、そして同時にちっぽけでもある存在を守っていくには、どうしても、この世界の差別化は欠かすことはできません。自分より“優等”(と判断し区分けした)なグループの仲間入りをするべく頑張る、という人生のチャレンジ、生きる動機、ロマンス、夢、希望、といったものも、差別化が土台にあるから生まれるものです。
わたしたちは、区別しそれらを採点しているのです。それは差別です。他者に対しても、自分自身に対しても、どこかのカテゴリーに当て嵌め、採点し、褒めたり、叱ったり、励ましたり慰めたり、絶望したり、希望でいっぱいになったり、を繰り返しています。
そして、どこかの時点で、こういうのに疲れたな、こうではないものの捉え方、採点しなくて済む優しい生き方があるのではないかな、と誰もが感じるのではないでしょうか。それは、今なのではないでしょうか。
今ですよ、という言葉として、BLMを受け取ると、人ごとではなくなります。人種差別や性差別だけでなく、様々な差別意識がコロナ鍋によって浮き彫りになり問題になった、というのは、今こそわたしたち皆が、区別のないボーダーレスを受け入れ、対等の関係の優しさを経験する時だというしるしではないかと思うのです。
( 初出誌 Linque Vol.70 発行 : 国際美容連盟)
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