「神様が、わたしに手鏡をくださった。よかったら、これでしばらく遊びなさい。いつやめてもかまわないから」人生は、こんなふうに始まったのかもしれません。 鏡には、わたしが映ります。顔ではなく、心が。人生で、見聞きするものはすべて、 鏡に映し出されたわたしの心なのです。 「夫を、もっとちゃんとさせるにはどうしたらいいでしょうか」奥様方が尋ねます。実に大勢の奥様が。稼ぎの悪い夫がもっと甲斐性のある働き手になるには、どうしたらいいでしょうか。会社でうだつの上がらない夫が変わってくれるには、どうしたらいいでしょうか。鬱の夫を立ち直らせるには、どうしたらいいでしょうか。夫の社交下手を改善させるには、どうしたらいいでしょうか。子どもに甘い夫が教育に協力してくれるようになるには、どうしたらいいでしょうか。週末には寝ているかテレビにかじりついているかしている夫に、もっと家族サービスをしてもらうにはどうしたらいいでしょうか。結婚前のようにロマンチックなひとときを過ごせるようにするには、どうしたらいいでしょうか。ぶすっとしていないで、家庭でもユーモアのある明るい人になってもらうには、どうしたらいいでしょうか。もう少しおしゃれに気をつかってもらうには、どうしたらいいでしょうか。おしゃればかり気をつかって、外で女性たちにちやほやされてるらしい夫をなんとかまともにできないでしょうか。 みなさんのご主人に会う機会があると、その彼がたいそうまともで誠実で、すばらしく魅力的なのに驚きます。いいえ、驚くにはあたらないことでしょう。彼が、たいそうまともで誠実で、すばらしく魅力的だから、彼女は結婚したのでしょうから。 その彼に、「奥様は、このように願っていらっしゃいますよ」と話せば、「無理ですよ」と答えるはずです。「これでもうじゅうぶん、精一杯やっていますから」と。「あなたが変わってくれなかったら、離婚だとおっしゃってますよ」と言っても「しかたないですね」ということになるでしょう。 どんなに嘆いても、文句を投げつけても、甘い鞭を与えようとしても、手練手管を使っても、夫を変えるのは不可能なのです。夫だけではありません。親も、子も、兄弟姉妹も、上司も、同僚も、友人も、変えることはできません。理由は、まず、あなた、こう変わってね、とお願いしているとき、そこにエネルギーがないからです。お願いは、常に無力だからです。お願いするとき、わたしたちの心は悲しんでいて、心配していて、怒っていて、不安におののいているからです。力の源から分離していて、ささくれだち、弱まり、孤独に喘いでいるからです。あるいは、ふくれあがった恐怖心で、「こんな人生じゃどうしようもない」と震え上がっているからです。その震える心が、鏡に映っているのです。そして、鏡に向かって「あなたのせいで」と文句を言っているのです。その文句に効用がないのは当然ですね。 では、その、他ならぬ自分自身の「震える心」を、いったい<どうしたらいいのでしょうか>?鏡を、まず、よく見つめることです。よく見つめるとは、愛を持って見つめるということ、鏡に映っているのは、うなだれた夫でもなくゲーム狂の息子でもなく、その夫や息子は、自分自身の心を、表現してくれているのだということを理解し、その上で、では彼らは、何を表現しているのだろうと、目を凝らし、耳をすませてみることです。彼らが何を表現しているか? 彼らが何を見せてくれているか? その答えは、事実、彼らが口にしているように、「自分は精一杯やっている」というひとことに尽きます。そして、その言葉こそ、鏡を覗いている自分自身のほんとうの声なのです。 「わたしは、じゅうぶん、精一杯やっている。精一杯、生きている」 たった今、自分がそのように思えなくても、鏡のなかの人々は、「あなたが自分についてほんとうに知っていることは、そのことなのですよ。あなたはほんとうはそのように、自分に言っているのですよ」と、教えてくれているのです。そして、その言葉を受け入れるとき、鏡のなかの人々も、「ああ、ほんとうだ、彼らは精一杯やっているな。わたしに精一杯の愛の手を差し伸べてくれているんだな」と見えるようになるでしょう。文句の代わりに愛おしさを、情けなさの代わりに誇りを、さびしさの代わりに暖かさを、後悔の代わりに感謝を感じるようになるでしょう。 すなわち、 愛おしさと誇り、暖かさと感謝を、彼らに対して感じ、彼らから自分に向けて感じ、さらには、自分から自分へ感じることでしょう。 そうやって、新しい自分の心が、神さまからいただいた手鏡に美しく映っているのを、見てみましょう。毎日、毎朝、そして文句の気持ちに気をとられたときにはいつでも。
(初出誌 Linque Vol.26 発行:国際美容連盟2009年10月)
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