先日、ヨガスタジオの入っている階からエレベーターを降りていくと、ビルの出口で、ドアマンが何やらうなり声のようなものを発していました。近づくと、彼の座っているデスクに隠れた手元にミニ・テレビがありました。
「君はすごい場面を見逃したよ」
わたしの気配に、彼が言いました。冷房の効いているビル内に、開いたドアから外気の蒸し暑い空気が入り込んでいて、彼の褐色の額に汗がにじんでいます。
小さなスクリーンに、中年の白人男性がステージに立っていて、正面に座った審査員三人が異口同音に、「43歳の今まで、あなたはいったい何をしていたんですか」と叫んでいます。「四人の子どもを育てていました」と、彼。「今日からあなたの人生はまるで変わりますよ」の審査員の声に、会場から大きな拍手。
アメリカで人気のあるダンス・コンテスト番組でした。
日本でも、似た番組があるようですが、こちらの番組は、プロ・アマ問わず、実にさまざまなスタイルのダンサーが技と表現を競い合うもので、クラシック・バレエ、ベリーダンスやタップなどもあり、けれども、さすがショービジネスの国、どの挑戦者も、ジャンルを超えたオリジナリティを見事に打ち出しています。たった今、ステージに立って賞賛を受けている男性のように、中年の挑戦者もいるようです。
わたしは、そのまま画面に見入っていました。
二十代前半の黒人の青年が登場しました。「学校を卒業するとき、ダンサーになると言ったんです」と自己紹介。「ママは怒ってぼくを家から追い出した。それから七年、ママとは一度も会っていません」。
ママは、というからには、パパはいないのでしょう。ひとり手で息子に愛情と期待とを注いできたママの、ストリート・ダンスにしか興味がない、進学も就職もしないと言い張る息子への嘆きは容易に想像されます。
その青年は、ホームレスになりました。ホームレスのまま路上でダンスし続け、やがて大勢の人たちから、拍手と、そしてお金をもらうようになり、ストリート・ダンスで得たお金でアパートを借りられるまでになっていました。
彼の演技は、驚くべきオリジナリティと高度な技で審査員、会場の観客、そしてドアマンとわたしをうならせました。彼は、今まで見たことのない(少なくとも私は)筋肉の使い方をし、肩や肩甲骨の骨を奇怪に、かつ優雅に動かしてみせ、しかもそれらの動きを、音楽に乗せて、完璧に調和のとれた振り付けに生かしていました。先ほどの男性に続き、次のレベルのコンテスト、ラスベガス行きのパスを取得しました。
「自己流でここまでできる人ってすごい。わたしなんか、四半世紀ヨガをやってきて、未だに、ときどき先生についてチェックしてもらわないと、身体が正しく動かない」と、私。
「これがギフトなんだよ」
胸元の、金の十字架のペンダントのあたりを指で触れて、ドアマンは言いました。
ステージでは、青年が泣いています。首筋も顎の線も細く、青年というよりまだあどけない少年に見えます。マイクを口元に寄せて唇をふるわせているので、「ママ、観てる?」と言うのだなと思いました。
違いました。彼の第一声は、友達に向けてのメッセージでした。
「ストリートの仲間たち、観てくれてる? ほらね、ぼくたちはちゃんとできるんだ。あきらめなくていいんだ。ぼくたち、やれるんだよ」
ああ、そうだったのね、これでわかった、と私。
「自己流じゃなかったのね。仲間たちに見てもらって、教えてもらって、正してもらって、鍛えてきたんだわね。やっぱりそういうものね」
「ハートだ」
彼は、また、十字架に触れて言うのです。
「ハートで聴く耳を持つ者が、人の批評をよく聴くし、結果、人のハートに届くものを完成させるんだ」
まったく、いいことを言うドアマンです。そう言えば、その日の朝、警報機のちょっとした修理に来てもらった、アパートの管理人からも、似た言葉を聞いていたのでした。その、英語を片言しか話さないロシア人ニコライが、「あなたは何を頼んでも、全部、5分以内で終わらせるわね。感動する」と言ったわたしに、「ハートで、ここに(=警報機に)訊きながらやるんだ。間違えると、ここが(=警報機が)No! と叫ぶんだ」と答えたと、そのドアマンに話すと、彼は、「君はいいビルに住んでるね。ラッキー・ガールだ」と、肩を叩いてくれました。
そう、この世界には、この人たちのように、至るところに、ハートで聞き、ハートを開く人がいて、そのハートに支えられて、そのハートに学ばせてもらって、私たちは生きているのだろうと思います。わたしも、毎日、その人たちの仲間として生きたい、人の言葉に(警報機の言葉にも)耳を傾け、心を開く姿勢を忘れずにいたいと気持ちを新たにしました。
それに、いつも実感していることですが、人と一緒にやると、何でも早く、うまくいくのです。自己流というのは、成功しないのです。自己流で成功しているように見える人がいたら、それは、その人をそのように見るこちらに見落としがあって、実のところ、その人は、心を広く開いて、常に、“自分自身の思い”とは別の声に耳をすませてその道を極めているのだと思います。あるいは、そのように、頑なになりがちな自分の心に風を入れながら生きることが、人生の成功、真にオリジナルな人生と言えるのではないかと思うのです。
(初出誌 Linque Vol.37 発行:国際美容連盟2012年7月)
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