お目当ては、実は凛ちゃんでした。
凛ちゃんは『王様と私』のなかで、双子のうちのひとりの役に抜擢されてデビュー、たちまち注目を浴びることになった9歳。お母様は、ピアノの先生であり、ご自身も素晴らしい演奏家であり、また、故武満徹氏の夫人、浅香さんがお書きになった、『作曲家・武満徹との日々を語る』の英訳をなさった一色智子さんです。
わたしには、凛ちゃんがずっと小さい頃から、ステージに上がっている彼女の姿が見えていて、それをお母様にお伝えしていました。
このように書くと、まるでわたしが“予言”しているように誤解する方がいらっしゃるのですが、わたしたちヴィジョンを受け取る者は、未来ではなく、たった今すでにあるエネルギーを見ているのです。そしてヴィジョンは、特別なことではなく、「肉眼に見えるものの代わりに、ここにあるエネルギーの特質を見たい」と意志することによって、観るものなのです。ですから、わたしたちにとって、ヴィジョンとして見えたものが、肉眼でも見えるようになる、つまり実現するのは、当然のことです。ただ、そのためには、“そのように成る”自然の力を阻止する思いを持たないことが必要とされます。「そんなはずはない」「自分にはできない」「わたしは違うふうにしたい」等々の思いにご本人がしがみついていると、実現に時間がかかります。
お母様は、わたしのヴィジョンを一緒に分かち合ってくださり、心から同意してくださり、それを心に留めておく、ということをなさっただけで、
この鮮やかなデビューを迎えることになった次第です。
一色凛(Lynn Masako Cheng)ちゃんは、舞台では、11人 の愛らしい子供たちのひとりですが、その弾けるエネルギーが際立っていて、大勢の目をとめる存在になっていました。学校を終え、毎日夜8時から3時間の公演を、疲れを見せずに演じている、凛ちゃんの姿を観るだけで胸がいっぱいになっている上、舞台は、何から何まで素晴らしく(数々のトニー賞受賞で衆人の知るところですね)、渡辺謙さんの演技力にも陶然とし、3時間弱の演目が、一瞬に感じられました。
この日は、プレビューのスタートから11週間、本公演から7週間が経過していました。開始直後に観たメディアの批評家や、友人たちのなかに、氏の英語力について言及する人が少なくありませんでした。ところが、わたしの観る氏の英語は、ケリー・オハラ氏の相手役として、立派なものと映りました。異言語という壁を超えた後の、伸び伸びとした演技と感じました。
日本人として英語圏で暮らし、英語で苦労をしてきてつくづくと思い知っていることのひとつは、英語を話すとき、もちろんできるだけ正確な発音をすることは基本でしょうけれども、同様に、またはそれ以上に、リズムと、言葉と言葉のコネクションが大事だということです。
日本語は、平坦な言語です。基本的に、どの音節も、均等に発音します。口の周辺や顎の筋肉をあまり使いません。抑揚、イントネーションは、凪いだ海のように平たい感じです。日本は、言語だけでなく、食事も平坦と言えます。西洋のように、前菜やスープから始まって、メインディッシュというクライマックスに向かい、デザートやチーズに戻っていく、というようなダイナミズムはありません。一品ずつ運ばれてくる料理の出し方もあるとはいえ、日本食というものは、全部一律、同列に、一度にテーブルに並べられるものです。平坦です。洋食のダイナミズムについては、かつて伊丹十三氏が、「農民の収穫物、野菜や豆から始まって、 勝利の象徴、肉や魚を食べ、そして植民地で生産される砂糖やコーヒーでシメる。実に帝国主義的である」ということをおっしゃっていましたが、日本にはそのような概念も歴史もありません。
英語を話すには、自分の場所を出て、英語の世界に入っていかなければなりません。つまり、完全に心をオープンにする必要があります。日本で持っていた自分のアイデンティティを抜け出し、新しい、未知の世界で、そこに在る心を表現できるなら、その人は、異言語を使って、真に自分の個性、持ち味をくまなく表現することが可能になるでしょう。
それを、渡辺謙さんが、やってみせてくださったように感じました。それも、初日から、わたしが観た日まで、そのたった6週間ほどで、やり遂げたことを目撃させていただいたと思いました。
出演が決まってからの氏の努力は並大抵のものではなかったことに疑いの余地はありませんが、これだけの短い期間で、ここまでリズムを身につけ、そのなかでご自分をこれだけ 表現なさることができるとは、自分を新世界に投げ込む力、そして投げ込んだ自分をすっかり開き、過去に覚えたことをすべて忘れて(たとえば日本式に身についたもののすべてを)自身を信頼し、自身に新世界を吸収させる“忘我する力”を無尽蔵に使っていらっしゃるはずだと感じました。
表現すること、伝えること、受け取ること、コミュニケートすること、その基本は、言語が何であろうと、忘我することで、相手との間に入っていくことと言えるでしょう。
渡米24年、わたしは今も英語を毎日学んでいます。帰国子女ではなく、大人になって自分の意志で語学に取り組む者なら誰でも同じだと思いますが、 一生続く、こんな楽しい学びを持っていることは、人生でいちばんの贈り物ではないでしょうか。日常で忘れがちな“忘我”を思い出さなくてはコミュニケートできないという環境とは、ほんとうに優しいものと思います。
渡辺謙さんも、この、最高に楽しい学びを味わっていらっしゃるに違いありません。
(初出誌 Linque Vol.49 発行:国際美容連盟2015年7月)
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