パリからニューヨークに着いたばかりの友だちを、早めの夕食に誘いました。この春に、五回目のインドひとり旅を予定している彼女を、最近見つけた菜食インド料理店に連れていきました。 余分な油、過剰なスパイスの一切ない、心身が洗われるような絶品を出すお店です。食もビールもおしゃべりも、店のご主人を巻き込んでの、とめどもなく続くものとなりました。
ご主人の出身地、南インドのその町の近くに、ヒンドゥー寺院があり、友達がそこに立ち寄ったことがあるというので、まず話が弾みました。 その寺院に足を踏み入れてまもなく、不思議な感覚にとらわれて、歩けなくなってしまったのです。膝から下がなくなったような感覚で、立っていることもできなくなりました。人に支えられてベンチに座っていたが、その寺院のなかにいる間中、両足の、膝から下がない、という感覚が続き、外に出た途端に、足が戻ってき、ようやく自分の足で立ち、歩けたのだそうです。彼女は、その寺院が、膝から下のない聖者を祀っていることを知りませんでした。 「乗り移ったのか! きみの身体に聖者が入ったんだね! めでたいことだ」と、店の主人。 「身体に魂が入ってくるなんていうことはないでしょう」と、わたし。 エネルギーは心にあり、動きは心にあり、感知するセンサーも心にあります。心と心のみがつながるのです。身体が別の身体につながったり入ったりなどはしません。 「両足がなくなった感覚が来て、それからどうなったの?」と聞くと、よくわからないの、という返事。足が戻ってきても、しばらく熱っぽい感じは続いたそうです。 「でも、それから、わたしのヨガのクラスに、どこかに障害があったり身体の問題があったり病気だったりする生徒さんが増えてきたのよ」 最近では、乳がんで、片方の乳房を全摘出した人から、体力を取り戻したいのでヨガをしてみたいけれど、無理だろうかと問い合わせがありました。 とにかく一度、クラスにいらっしゃっては、と彼女は答えて、さっそく、胸と脇をじゅうぶんに守ってできるヨガのポーズを研究して、次のクラスに備えたそうです。
彼女のヨガ・クラスでは、正しいヨガのポーズが存在しません。生徒さんたちの身体がそれぞれに違うので、それぞれのポーズがあるだけです。彼女は、心だけを見ます。 そして、最後は、床に仰向けに横たわり、全身の力を抜いていくポーズです。このポーズも、形は違います。けれども、氷が熱いお湯のなかで溶けていくような、リラックスした感覚を味わうということでは、皆、同じです。 乳がんの手術を終えて間もない生徒さんは、そのポースをしているとき、「あなたは大丈夫、と、誰かにはっきり言われた気がしたの。生きる力がここにあるって、胸の真ん中を指差された感じがして」泣き出したそうです。 泣くのよ、みんな、と友だち。みんなで祝福を分かち合うときって泣けてくるのよ。ヨガをグループでやる意味はそこにあるの。
友達は、ヨガのクラスとは呼ばないのです。ヨガのグループ、と言います。ヨガの先生と呼ばれるのを嫌がります。 「先生と生徒という区別がある限り、誰も、何も学ばない。クラスでは、いつも自分がどう感じるか、身体が気持ちがいいかどうか、それだけに意識を向けてもらうようにしている。どこかにいい先生がいるのではなく、自分のフィーリングが先生なのだから。自分のフィーリングという確かな先生に出会うときだけ、わたしたちは生きる力を得るのだと思うわ。そしてそれは、みんなが共にいることで、励まし合って、出会えるものなんだと思うの」 フィーリングにつながって、祝福し合う。 それが彼女のヨガだという。 そう、人生とはそういうもの。 フィーリングによって、力がみなぎり、人生を受け入れる気持ちになり、自分が祝福されていること、守られていることを実感する、それが、わたしたちの人生というクラス、いいえ、グループの目的だと言えるかもしれません。 フィーリングにつながるということを確認させてくれた、夕食のテーブルに差し向かいになっている彼女に、そして店のご主人に感謝の気持ちがあふれてきたとき、お店の空間に、彼女が訪ねたヒンズー寺院のエネルギーが加わって、「よし、それでいい」と伝えてくれているような感覚が、確かにわたしを包みました。
(初出誌 Linque Vol.23 発行:国際美容連盟2009年1月)
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