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執筆者の写真Yasuko Kasaki

41. アンとリラ

この夏、友人のアンがついに亡くなりました。享年75歳。 ついに、というのは、アンが長く患っていたからそう言うのですが、けれどそれは彼女が晩年を病院のベッドで過ごしたということではありません。 彼女は、自宅で、いつものように晩にベッドに入り、そして眠っているうちに旅立ったのです。そして最後の1日のうちの数時間を、彼女はやはりいつものように自宅にしつらえたアトリエで創作に励んでいました。 アンは、幼少の頃から、「いつ死んでもおかしくない」と言われていて、腎不全、皮膚結核、その他いろいろがいつも彼女とともにあり、わたしが彼女を知ってからの十数年のうちにも手術や入退院が何度も繰り返されましたが、小学校もまともに通えた学年がなかったそうです。「でも、父がね、よかったなあ、アン。入院中はいくらでも好きなだけ本が読めるなあ、と言って、病院の近くにある図書館の図書館院の女性を病室に連れてきてくれたのよ。その女性も父と同じように、アン、よかったわねえ、毎日、いくらでも本を持ってきてあげるわね、なんて。それで、わたしも、なんだか、よかったなあ、と感じていたの」アンは、そう言って笑うのです。 よかった、よかった、と言われながら、病院のベッドで大量の本を読破した少女は、長じて、ニューヨーク・タイムスに寄稿するフリーランス・ジャーナリストになりました。 マンハッタンのイーストヴィレッジにあったかつての彼女のワンルーム・アパートメントは、四面の壁が本に埋もれていて、その部屋の中心に、机とタイプライターがあり、アンは、ニューヨーク・タイムスの編集室で朝の5時頃まで過ごしてから部屋に戻り、昼過ぎまで本の谷間にひっそりと横たわったベッドで眠ると、午後から勢いよくタイプライターを叩く、という生活をしばらく続けていたそうです。 彼女の最初の結婚相手にはすでに男の子がいて、アンは、病気と仕事と夫と息子を抱える生活に入りました。「わたしは病気があるから、とても子どもは望めなかったけど、何もしなくても、わたしの息子は、向こうから来てくれたのよ」 アンはそう言って、晩年まで近く親しくしていた義理の息子さんのことを語るのですが、結婚生活のほうは、まもなく打ち切られ、彼女は再婚します。その相手には、二人のお嬢さんがいました。2度の結婚のおかげで、アンは三人の子どもに恵まれることになったわけです。 アンは、ジャーナリストとしての仕事を精力的に続けながら、キルティング・アートを真剣に学び始め、四十代に入ってから、本格的なアーティスト活動に入ります。わたしは、彼女の作品を目のあたりにするまで、ほんとうに緻密な作業とセンスを要する、ハイレベルのアートとしてのキルティング作品を見たことがありませんでした。圧巻は、彼女の友人の、亡くなったご主人のネクタイ・コレクションを使い尽くして完成させた壁掛けでした。彼女の作品に使われる布には、必ず、“人生”が入っているのです。 再婚相手のデヴィッドは、「定年になったら俳優になる」と決めていて、定年を迎える数年前から、アクティング・クラスを取り始め、実際に俳優に、そして芝居の演出家になった人です。アンはそれをおもしろがって、彼のアクティング・クラスにも興味を持ってときどき参加していたということを、先日行なわれた、彼女を偲ぶ会で聞いて、仰天してしまいました。 病とその痛みと不自由さを抱えながら活発に動き、人々に心を開き、好奇心と創造性を抑制することがなかった彼女に魅了された人々は多く、その会には、ジャーナリズム関係者、出版関係者、劇場関係者、美術館、ギャラリー関係者、医療関係者、それから子どもたち、孫たち、等々が数百人も集まりました。 わたしは、その会のちょうど一週間前に、カンザス州の小さな町で、リラという女性の100歳のお誕生日を祝う会に参加していたのですが、彼女も、アンと同様、圧倒されずにいられない人生を送ってきた人です。二人の夫を看取り、最初の夫を亡くした後に開いた食堂を、四十七年間、ひとりで切り盛りし、娘三人を育て、寄付を集めるイベントを企画しては、町に老人ホームを建てたり、新しい学校を作ったり、道路を整備したりしてきました。その間にご自身が癌を煩い、手術と抗がん剤治療を受けるということも乗り越えてきました。その日100歳を迎えるリラは、朝の内に美容院で髪をセットし、おしゃれに装い、お嬢さんに頼んでおいた新しいイヤリングのデザインが、「イマイチ」なのを気にしているのでした。 アンとリラの共通点が二つあります。 ひとつは、身体の痛み、病、身内の不幸、その他さまざまを、決して、「幸せになれない」「やりたいことができない」言い訳に使わなかったことです(トシだから、ということも言い訳にしなかった、ということも加わるかもしれません)。そしてもうひとつは、「いつも、人のためを思って生きてきた」ということです。(自分も含めた)みんなのために老人ホームがあったらいい、と考える、この思い出の布を作品にして差し上げたい、と考える、その心で生きてきたということです。 生命とは、まさにその心のことなのだと、二人の勇敢な女性に教えてもらったと思っています。


(初出誌 Linque Vol.42 発行:国際美容連盟2013年10月)

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