飛行場にさえ行けば、そして飛行機に乗り込んでしまえば、“多少”時間の長短はあるにしても、世界中何処へでも行ける時代です。どこかへ行きたいと思う時、そこが遠いか近いか、あまり関係がなくなってきました。遠くても、逆に航空運賃が安い場合もありますし。近く見えても乗り継ぎが不便な場所もありますし。 ニューヨークに住んでいる日本人は、ニューヨークと日本に拠点を持っているようなものなので、中南米やカリブ海も、アジア各国も、同じように行きやすい感覚があります。もちろん、ヨーロッパも近く感じます。実を言えば、特に近いわけでもないのですが、世界はかなり小さいのです。 ひとつの場合を除いては。 例外は、日本にいる家族や友人の危篤の知らせを受けた時です。または訃報を。 そんな時、わたしたちは、まず航空会社または旅行会社に電話をして、一番切符を無事に手に入れた後は、一晩の長い夜が待っています。そして、翌日飛行機に乗り込むと、そこにまた、果てしのない時間が待っているのです。 この時、わたしたちは、日本とニューヨークがどれほど遠いかということを思い知らされている気になります。太平洋を渡るだけじゃなく、北米大陸を横断するのにほぼ五時間を要しますから、それはそれは、長い航路なのです。「西海岸に住んでいる人が羨ましい」などと思ったりするのもこの時です。 さまざまな思いがめぐり、さまざまな感情が織り混ざって胸にあふれます。涙もあふれます。 その辛いフライト経験は、往路だけではありません。往路ほど切迫した思い出はないにしても、復路でも、同じようなさまざまな思い、感情が絶え間なく胸にせり上がってきて、それを長時間耐え続けなければなりません。 誰もが、でないにしても、ニューヨーク在の日本人のほとんどが避けて通れない、この長い旅。 わたし自身にもありましたし、これからもあるでしょう。周囲でもしょっちゅう、このような旅があります。ああ彼女は今頃アラスカあたりを飛んでいるのだな、思いに耐えているのだな、と心の中で友人の旅路を祈らずにはいられなくなります。 そんな旅の最中には、おまけの思いにもとらわれることが多いのです。例えば、「私はこんなに遠い距離の場所に生きることを選んできた。果たしてそれだけの価値のある選択だっただろうか」と。すぐに飛んでいけない自分を責める思いが生まれることがあるのです。たいへんな親不孝をしていたのだと感じて悔やまれてならなかったと言う人も少なからずいます。 でも、近年、わたしは、その長い時間が、逆に神様の恵みのように感じられるようになりました。 長く辛い時間を、恵みの時間として受け取れる人が増えてきたからです。 シートに身体を沈めて、じっと姿勢を保ったまま、長い時間、心を見つめ、心に吹き荒れる嵐のような思いに揺らされ、揺れているうちにそれらの思いに対する観察眼も生まれ、そのうち、魂の邂逅、とも言える瞬間がやってくることもあるわけです。 身体は離れているかもしれないけれど、心の奥には、繋がっている部分があり、その部分には、距離もなければ時間もない、隔たりがないから違いもない、完璧にわかりあいひとつになった場所なのです。機内でひとり、じっとしている長い時間に、その場所を見つける経験があるのです。 太平洋上で、今までにないほどの強い繋がりと優しさを、家族や親しい人たちとの間で感じる、という経験を、大勢の日本人ニューヨーカーはしているのだなと感じています。 人との繋がりは、身体と身体が近くあることと関係はありません。魂の繋がりこそ唯一私たちが求めているものであり、それは、見つけようとすれば、いつでも心の中にあるものです。魂がすでに身体を捨て去っていても、同様で、繋がりを見つけることに何の支障もありません。
( 初出誌 Linque Vol. 64 発行 : 国際美容連盟 2019年4月)
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