愛そうとしたのに、その愛は受け入れられなかった。 ベストを尽くしたのに、その仕事は認められなかった。 このようなことを、わたしたちは「挫折」と呼びます。 人生には挫折がつきものであるとわかっているし、挫折こそが人を育てると言われていることも知っている。それでも、このようなことがあると、わたしたちはぺしゃんこになってしまうんですね。自分をますます嫌いになり、世の中の不公平を恨み、希望を失い、無力感に打ちひしがれてしまいます。 そして、挫折の理由を急いで考えます。その理由とは、大別して、自分に非があるか、相手のせいか、どちらかです。わたしが00だったから愛されなかった、相手に準備ができていなかったからだ、これからは簡単に人を信用しないように気をつけよう、わたしより実力が低くても、口のうまい人が勝つのだわ、等々と。 これはすべて、でっちあげなのです。起こったことがあまりにつらいので、それを何かのせいにしないではいられない。でも事実は、それは理由なく、ただ起こったに過ぎないのです。どんなに気をつけていても、風邪をひくこともあるし、大事なときに子供が熱を出したり、台風で旅行が中止されたりします。世界一の美女でも失恋するし、秀逸な頭脳の持ち主がすべての人の価値観と一致するとは限りません。つまり、自我が「かくあるべし」と思うことが実現しないことは、人生に、確かに多々あるということです。 なぜでしょうか。人生はかくも残酷なものなのでしょうか。いいえ、そうではなく、人生は、ちっぽけな自我を超えた、大きな力で動かされているものだからなのです。すべてのことがらは、その人にとって「良きことのためだけに起こっているのです」。これだけが、自我を超えたところにある、ただひとつの<理由>です。 そして、起こることにはさまざまなバリエーションがありますが、良きこととは、ただひとつのことだと、わたしは心得ています。すなわち、「わたしが立ち上がれるように助けてください」と祈る心を持てる機会を与えられるということ、そして、その祈りのたびに、自分がほんとうに欲しいもの、求めているもの、この人生でつかみ取りたいものを明確に、より強いものにしていくことができるということ。 打たれて、自信をなくして、あれこれ理由を考えたりしている間に、ふっと霧が晴れるように、ほんとうに願っているもの、ほんとうに欲しいものの姿がくっきりと見えてくる、という経験をしたことはありませんか。ああそうだった、自分にとって大事なものはこれだった、と気づいたことはありませんか。 あらゆる出来事を、このようにとらえられるかどうか、祈りの機会にできるかどうか、それが次の愛、次の仕事を決定するように思うのですが、いかがでしょうか。 ドストエフスキーの小説に、こんな一節があります。 「祈りなさい。心から祈るたびに、あなたはそこに新たな力を加えます。より大きな勇気が与えられるのを感じます。祈るとは、思いを深めることによって、自分を教育することなのです」
(初出誌 Linque Vol.8 発行:国際美容連盟2005年9月)
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