羽田からニューヨークへ戻る機内で、アメリカの人気テレビシリーズの ”This is us” を観始め、止まらなくなって観られるだけ全部観て、ニューヨークに着いてから、シリーズ全部を観通してしまいました。 そうなるだろうなとは、観る前からわかっていました。ずいぶん前に、ニューヨークの市バスのお腹に描かれた広告写真を見かけた時から、「これは絶対わたしがハマるドラマだ」と思っていたのです。ハマるとわかっていて観ていなかったのは、単にハマっている時間がなかっただけの理由です。 家族ドラマは数知れずあるけれど、このシリーズに特に心が動いていたのは、ひとめでこれが、1987年から始まったテレビドラマ・シリーズ、”Thirtysomething” の現代版なのだなと閃いたからでした。 ”Thirtysomething” は、ABCネットワークで四年続いた大ヒット・ドラマで、当時流行した、ヤッピーと呼ばれる30代の日常を描いています。日本でも、ずいぶん後になってから、その一部が「ナイスサーティーズ」というタイトルで放映されたのだったと思います。また、このシリーズをヒントにして日本を舞台に制作されたドラマもあったようですが、登場人物たちが同じ30代から40代でも、日常も内容もテーマも全くかけ離れていたと記憶しています。 わたしがニューヨークに住み始めたのが1987年なので、ちょうど、わたしの知りたいアメリカを、オンタイムで見せてくれていたことになります。メジャーネットワークで初めてゲイのベッドシーン(二人が共にベッドに横になっているだけのシーン)を見せた、“勇気ある”演出が、ニューヨークタイムスでも話題になりました。そんな時代です。とはいえ、わたしがこのドラマを本当に観始めたのは、夫(のちに元夫となった人)が日本に帰り、ニューヨークで一人暮らしを始めてからのことで、1990年代の初めの頃、つまりオリジナルの放映は全シリーズ完結してから後のことになります。 朝と昼と夜の三回、毎日再放送されるのを、ほぼすべて、観ていました。朝昼晩のそれぞれ、別のネットワークが放送するので、どれも同時に観るとなると、時系列がめちゃめちゃになるのですが、どのページにも珠玉の言葉が連なっている詩を読んでいるのと同様、どのエピソードもわたしには宝もので、このテレビを観ることこそがわたしの人生と言っても過言ではない生活がしばらく続いていました。 わたしは、このドラマで英語を覚えたようなものです。 実の兄と妹が、I love you. と目を見つめ合うことを学びました。お互いに生き方が違うからこそ、相手に対しての敬意と、「あなたを全面的に受け入れている」という表明のために、I love you. は使われるのでした。 婚約破棄された青年が、相手の母親に会い、母親に、I’m sorry. と声をかけられて抱き合うということを学びました。その I’m sorry. は、「うちの娘があなたを傷つけてしまって本当に申し訳ない。母親として、なんてお詫びを言ったらいいか」という日本語的な意味なのではなく、「本当に残念だわ」「残念な経験は人生にはあるわよね。わかるわ。でもくじけないでね」という意味なのでした。 英語で生きるとは、日本語で生きるのとは違った人間関係を生きることなのだと学んだのです。英語で I’m sorry. と言うとき、それは「申し訳ございません」ではないのです。ここにすっくりと立っている「わたし」が、何かしらの問題に直面している「あなた」に、共感と同情、励ましと信頼を送る言葉なのです。 英語で I love you. と言うとき、それは「わたしたち、同じよね。わたしたち、ひとつよね。わたしたち、運命共同体よね。あなたなしでは、もう、生きられない」ではなく、あなたとは別の存在である「わたし」は、「あなた」を全面的に認め、受け入れ、あなたの内にある愛の強さを見ることを今、決意します、という意味なのです。その決意をお互いに表明する時、そこに真の親しみが生まれ、安心して心を打ち明け合えるわけなのです。 日本語は、相手との関係によって自分という存在の位置が変わっていく言語です。英語は、誰との間に何が起こっても、「わたし」は揺るがず、「あなた」も動きません。それは、店員と客との関係でもそうです。英語での店員の対応は、完全に対等です。客という神への対応にはなりません。 どちらも、その先に見ようとしているのは同じだと思います。二人ともひとつの同じ生命であった、違いはどこにもなかった、心は完全に重なり合っていた、共に幸福な時間を共有できている、という実感です。でも、出発点が違うのです。 I love you. は、だから、日本語には翻訳できません。あえて訳すなら、「わたしはあなたです」ということになるでしょうか。 I love you. と囁く恋は、日本語ではできないのではないかと思うのです。 わたしは、90年代の前半に、テレビ番組によって、そんなことを吸収していました。その後、I love you. を、自分の恋の中で囁きもしました。 そして今新たに、同じ30代前後の日常ドラマ “This is us” に、かつてと同じものを観ています。アルコール依存症の夫は、どうしても酒を断てない心の弱さに、ついに家庭からドロップアウトしようとします。妻は、Yes, you can do it. I am with you. と言って、別れようとしませんでした。それは、「この弱い夫を、わたしの力でなんとかしてみせる」という共依存の表明なのではなく、「あなたは弱くない。わたしは、その強いあなたを見届けていたい」という声明なのでした。様々あるクライマックスの中でも、この夫が自ら依存から回復し、本来持っている繊細で忍耐強い優しさをのびのびと発揮していくようになる下りは圧巻でした。 今わたしは、I love you. を大勢の人たち、あらゆる関係の人たちに使っています。日本語と英語の両方の世界で、というよりも、二つの世界の間に生きているように感じています。それがどういうことか、自分でよくわかっていません。だからこんなことを書いているのだと思います。
( 初出誌 Linque Vol. 62 発行 : 国際美容連盟 2018年10月 )
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