ニューヨーク近郊には、驚くべきことがたくさんありますが、そのひとつは、いくつもの素晴らしい彫刻公園です。市内のノグチ・イサム美術館も有名だし、マンハッタンには路上の彫刻作品も少なくないのですが、少し足を伸ばすと、それはそれは広大な敷地に、サイズもアイデアも、伸び伸びと制作された彫刻作品、建築作品が点在する公園があって、どの公園も、隅々まで行き届いた手入れがされて、草花も豊かに生き生きとしています。 広い公園にある作品は、基本的にみな大きく、または巨大です。 それらは、“そこ”に設置されることを前提に制作されたものもあるし、“そこ”が適切だねと運んで来られたものもあるようです。いずれにしても、すでにあるものを鑑賞する私たちにしてみれば、それがそこにある、というのは、唯一無二のものとしかもはや思えません。そこにそれがない風景など考えられない、と思うほど、ハマっているのです。 各作品は、それを取り囲む地形と、近景と、遠景と、また陽の光や雨と、もしくは空から見下ろした時の風景さえと、見事に調和しています。そこにいて聞こえてくる音にまで感覚を広げて制作したアーティストもいるのではないかと想像しています。 たとえばお隣ニュージャージー州のGroungs for Sclptureやニューヨーク、アップステートのArt Omi など、創設チームの意志や大勢のサポートで運営されている場所は、作品自体はどっしりと不動でも、周囲の自然や、人々の思いでエネルギーが動き回っているように感じられます。 その公園に投入されている膨大なエネルギー、各アーティストが注ぎ込んでいる創造力の限りのなさに、目も眩むような幸福感にひたされます。 そしてそこに、友人の作品を見つけると、その人が、その作品制作のために経験した喜びと苦しみ、煩雑なビジネスのプロセスを思い出してますます感極まってしまうのです。 彫刻家として生計を立てていくのは難しい、と、転向した友人もいます。別のビジュアルアートを選び直した人もいるし、グラフィックデザイン、Webデザイン、広告等の仕事に転じた人も、はたまた金融業界に入った人も知っています。 そんなことを思い出しながら、目の前の巨大な作品 ― その形やテーマや材質や色彩など複雑すぎて形容しがたく、ただ、たくさんのキューブが縦横無尽に伸びている、バランスが取れているとも思えないけど実はこれで取れているのかしら、それとも取れていないところがポイントなのかしら、というように見ている ― の前に立っていると、その“役に立たない物体”が、ほぼ人に知られず、森の脇のなだらかな丘にひっそりと佇んでいる、そのことの力強さに圧倒されます。 “役に立たない” ものには、何か、かけがえのないものがある。そう感じさせられます。 彫刻家が皆お金を稼げないわけではないけれども、労力の割には稼げず、または、まったく稼げず、ベッド代わりにいいかも、などということはなく、つまり日常に利用するわけには行かず、ましてや、買っておくとお得、と言える類のものでもなく、なにしろ普通の住まいには大きすぎ、多くの画廊にも大きすぎる代物、ということは、やはりどうにも役に立たないのです。 人生の役に立たないものは、人生を、実は背後から支えてくれているのではないかと思います。 私たちは、役に立つものを周囲に置いて、それらに頼って日常を送っているように見えますが、実のところ、役に立つものより、役に立たない多くのものの方が多いのではないかと思います。椅子には役に立たないデザインが施され、テーブルには、役に立たない切花が生けられ、シャツには役に立たないフリルがついています。フリルは「わたしを可愛らしく見せる」というもっともらしい理由は、後から付けた“言い訳”のように感じます。見栄えを良くするため、というのは、単純に「好きだ」と言うための便宜にすぎないのではないでしょうか。 ひとりひとりの人間も同様で、人は、つい「役に立つ人間になりたい」などと、前へ前へ進もうとするものかもしれませんが、前に出るほどに、後ろからの支えが大きくなるのではと思うのです。 役に立つものにまず意識を向けることの怖さは、いわば、いのちの支えを忘れること、つまり、いのちの輝きを弱めること、そして「好き」というトキメキが自分でよくわからなくなってしまうことかもしれません。 疲れた時には、その時々の自分に、いちばん役に立たないもの、いちばん関係が遠いものに接するのが特効薬になるようです。アートが活力をくれる、というのはその一例ですね。 また、人間関係のこじれも、相手との関係が自分の人生に役に立ったり害になったりする、という考え方を脇に置いて、相手を、まさに一つの彫刻作品のように見ること、ただそこに存在して、よくわからなくはあるけれども魅了されるもの、言葉を発しているようにみえて実は本当の声は、静けさの中に佇んでいるもの、ただここで、今、共に存るものとして受け入れることで、その人と自分が支え合っているという感覚に触れることができるはずと思うのです。
( 初出誌 Linque Vol. 66 発行 : 国際美容連盟 2019年10月)
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