ハリケーン・サンディの打撃がおさまらないまま冬を迎えたニューヨーク近郊に、惨事が起きました。ニューヨークのすぐお隣のコネチカット州のサンディフック小学校での乱射事件です。児童20人、教師6人が死亡しました。事件が報道されて後、一刻も早く我が子を抱きしめたいとのみ願い、実際にそうした親は、アメリカ国内にとどまらなかったかもしれません。オバマ大統領も、スピーチ中にむせび泣きを抑えられなかったほどの、まさに“全世界を震撼させる事件”のひとつでした。ニューヨークでは、すぐお隣の学校での出来事ということもあり、一日中涙がとまらなかったというお母さん方、「日が変わってもまだ取り乱しています」と訴える方が、大勢いらっしゃいました。
アメリカで乱射事件が起こると、まず、銃規制の問題が騒がれます。また、処方箋薬の問題も再燃します(医者に処方された抗鬱薬、向精神薬が逆に作用して精神を錯乱させ、それが悲劇につながるケースがあります)。事件の要因として挙げられるものは、もちろんそれだけではありません。宗教の自由、精神病院の予算、親子カウンセリングの効用、学校の防衛方法、、、リストは延々と続きます。それぞれに対する意見も千差万別です。そして、そのすべての考え、意見の底には、「どうやって自分(たち)を守るか」という思いがあり、その思いは「この世には、根絶しなければならに敵がいて、その敵がいる間は、なんとかしてその敵を避け、自衛しなければならない」という、わたしたち全員が抱えている想念から生まれています。
それは、普段は気づかないふりをしていても、何か事件が起こるたびに意識にのぼり、日頃は見て見ぬふりをしているが、実は自分が、どれほど怖がりながら日々を送り、どうやって自分(そして自分に属する者たち)を守らなければならないかということに戦々恐々としていること、そして正直なところ、守りきれるわけがない、必ず守れるほど自分には力がないと認めていること、したがって、自分を守ってくれる強い力が要るが、親、学校、会社、政治、どれをとっても、不完全なものであるばかりでなく、それらこそ敵そのものということだってある、という想念です。
わたしたちが震撼するのは、事件そのものではなく、わたしたち自身のなかにあるそのような無力感に対してなのではないでしょうか。
人生で経験することは、すべて、心の反映です。ある出来事に触発されてわき上がる思いこそ、今まで気づかずにいた、自分の心に横たわる想念であり、また、その想念こそが、まさにその経験、その惨事を引き連れてきています。
なぜ? どうして? という心の叫びに充満する悲痛さそのものが、悲痛な経験を作るというなら、わたしたちに、それを変える力はあるのでしょうか。悲痛さではなく愛と喜びを基本想念とし、愛と喜びの経験をのみ創造することはできるのでしょうか。
問題が、自分の心のなかにある想いであるなら、それを変えることができないはずがありません。そして、できることであるならば、しなくてはならないに違いありません。
わき起こる悲痛が深ければ深いほど、それにとって代わる愛と喜びの経験を求めなくてはならないのではないでしょうか。悲痛な事件から目をそむけて喜びを探すのではなく、その悲痛さのただ中を直視しながら、そこに、なんとしてでも、喜びを見出すという勇気が求められてはいないでしょうか。
そして、それは、いつも、大勢の人々が自然に行い、わたしたちに見せてくれているものでもあります。
たとえば、サンデイフック小学校の、勇敢な教師たちが、そうでした。ほとんどが非常に若い先生たちです。彼ら彼女らは、とっさに子どもたちを避難させ自らが銃弾の的となりました。あるいは、「子どもたちが最期に聞くものが銃声ではなく、愛の言葉であるように」と願って、アイ・ラブ・ユー、と、繰り返し子どもたちに囁き続けた先生もいました(その先生と子どもたちは助かりました)。
そして、「この児童だけではないのだ。世界中で、実に大勢の子どもたちが、日々銃弾に撃たれて死んでいるのだ」「銃弾だけではない。ありとあらゆるやり方で生命を奪われているのだ」という声も強くあがりました。
「いつか犯罪をおかすかもしれない精神的(機能的)な問題を抱えた息子を持つ母親」として、新聞に投稿した母親もいました。『わたしはアダム・ランザの母です』(アダム・ランザは、今回の事件の犯人の名)と題された記事は、精神的(機能的)に問題があって、暴力を示すことのある子どもを持った母親が、日常的に直面する危険のさまざまを示し、「これは家庭内や医者との間では解決のできないことです。みなさんのヘルプが必要です」と訴えています。それぞれが孤立している状態から、心をオープンにし、手を取り合うことで、変えていけるという希望を呼びかけています。
わたしたち日本人が、世界に呼びかけたことも同じではなかったでしょうか。3.11.の後、孤立した無力感こそを手放そう、と決意したのではなかったでしょうか。あらためて、それを心の真ん中に置きたいです。心に巣食う無力感に気づくときはいつでも、「わたしもまたアダム・ランザの母なのだ」ということを思い出すことにしたいです。
(初出誌 Linque Vol.39 発行:国際美容連盟2013年1月)
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