何も欲望するものがないとき、心は穏やかに感じられます。このような波風のない心でずっと過ごしたいものだと思います。けれども、ひとたび、何かが心に生まれると、他愛なく、揺れ動いてしまいます。 歯が痛くなる。それだけで、限りないあれこれの波が心を揺らすのです。歯医者の予約を取らなければ。忙しいのに。痛いのはいやだなあ。保険外の料金をまた払わなくてはならないのだろうか。父親譲りの弱い歯が恨めしい。 胸にしこりのようなものがある。半年前のマンモグラフでは異常なかったのに。どうしよう。医者に行くのが怖い。もう手遅れだとしたら。 失敗した。あんなことを口走るんじゃなかった。あのときの彼の表情が忘れられない。二度と彼はわたしと会ってくれないだろう。 来月の試験。いやだなあ。受からなかったらもう一年。みっともないなあ。両親にがみがみ言われるなあ。 ぐさりとナイフで刺されたような大事件から、どんな些細なことまで、いったん何かが起こると、心の平和はあっけなく消え去ってしまいます。 そして、意識は、起こった出来事のまわりにぺったりと張り付いて、その出来事の形を変え、解決し、その経験から、何か役立つことを得ようとします。ただ平和に戻りたいと願う代わりに、「元をとろう」いいえ、願わくば「ただでは起きないぞ」と思うのです。あるいは、このように思うかもしれません。「これさえ解決したら、あれもできる、これもできるのに」と。 わたしたちは、そんなとき、その歯痛を、癌疑惑を、破産通告を、離婚訴訟を、解雇を、勤務先倒産を、凝視しています。それらが、突如として、いわれのない理由で、自分に襲いかかってきたのだと考えます。そして、このように災難に襲われる人生に、この世に対して、不平不満をもらし、嘆きの声をあげるのです。 けれども、このとき、凝視する場所を、自分の心のなかにしてみれば、その嘆きの理由は、癌でも失業でも失恋でもなく、突如として表面化した、無力感だということがわかるでしょう。 自分でコントロールできない事態、自分で変えることのできない状況、自分が何かに浸食され、むしばまれていき、それに対して手をこまねいている有様にこそ、怯え、震え、絶望しているのだということがわかります。 その証拠に、普通の体質の者なら、ちょっとした擦り傷や鼻風邪で嘆くようなことはしません。自分でなんとかできると思えるうちは、すなわち、自分のなかに、それを癒す力があることを知っているときには、わたしたちの心の平和は乱されないのです。 発病しないまでも、わたしたちは常に、擦り傷など問題ではないが、深刻な病気になってはたいへんだ、と警戒しています。健康のことだけを考えて暮らしているのではないにせよ、不安はうっすらと心を覆っています。あるいは、心の奥に閉じ込められています。 発病は、いえ、すべての「問題」は、その不安や警戒心を、一気に表面に引き出して空気に触れさせ、存分に暴れさせる起爆剤だと言えます。 心に抱えている「うれしくないもの」「ないふりをしているもの」「なだめすかしているもの」「隠しているもの」を、否応なく日の目にさらし、くっきりとした輪郭を見せつけるもの、それが「問題」の目的であり、また原因です。 わたしたちは、「問題」を目にするたびに、抱えていた無力感を手放し、自分のなかの限りない力を取り戻すことができるのです。 問題などなくても、心の平和を保つために、瞑想をしたり、スピリチュアルな本を読んだり、ヨガをしたりすることはできます。けれども、重大事に直面することほど、心に有効なものはないでしょう。 危機に直面したとき、わたしたちは、待ったなしの選択を迫られるからであり、選択をするには、実のところ、無力すぎるからなのです。わたしたちは、無力感にうちひしがれているときには、自分のなかの力の源に素直に従うほかなくなってしまうのです。 傷ついたり、焦ったり、恐怖に震えるときには、その原因と見えるものに目を奪われず、心のなかを見てみましょう。 ああ、わたしは、自分をぜんぜん信頼できない。 ああ、わたしは、自分に、力も希望も見いだせない。 そこにこそ嘆きがあることが明白になります。 自分でなんとかしようと頑張っていた自我がやっとお手上げになって、はじめて、助けて、と、掠れ声が出るのです。 この、小さなささやきほど、美しい声はないのではないかと思います。 なぜなら、このSOS は、唯一、正しい方向に正しく発せられたものだからです。すなわち、自分のなかの力にです。 自分の力に、助けてくださいと、導いてくださいと、さらには、助けてくださってありがとうと言える人、常に言っている人を、美しいと思います。当然です。その人は、そのとき、宇宙の美とつながっているのですから。 その美しい人は、ゆっくり息をして、身体を休めるはずです。
(初出誌 Linque Vol.25 発行:国際美容連盟2009年8月)
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